『彼女の分岐点』
大志を抱けなんて言うけど、私が抱いたそれは、わたしには分不相応過ぎて抱えきれなかった。
己の身の程を知って夢を諦めた私は、故郷への切符を手にした。
(ため息)
たった三年。諦めるには早いと言う人もいるかもしれないけど…私は思い知ったの。
私と同じ場所を目指す沢山の人達は、私よりずっと夢の近くにいた。
何年経っても追いつけない、そう感じさせる程にあの人達は私の持たないものを持ち、ずっと先にいる。
到底、敵わない。
私はそこへ向かう事を諦めた。
アパートの更新の報せが届いたのをきっかけに、私は荷物をまとめた。
夢の為にこの地で増やしたものは全部ゴミ袋に入れた。二つ、三つ…袋の数が増えていく程、枷となっていたものがどんどん剥がれ落ちていく気がした。
(ゴミを集積所に置く)
たった三年で諦めた理由はもう一つある。
私は故郷を出る時、とても大切だったものをおいてきた。夢に真っ直ぐに向かえるように、振り返らないようにと、捨てたも同然においてきた。
それは当時付き合っていた彼への思い。
優しくて、純朴で…いつだって私の夢を応援してくれてた。最後の別れの時も…。
彼には、家業を継がなければという思いがあった。
自分は長男だからと古臭い考えを持っていたのは両親を大切に思っていたから。
地元愛も強くて、生まれ育った地域に貢献したいと、瞳を輝かせながら語ってくれた。
私は彼が大好きだった。
でも私は、そんな彼を選ばず自分の夢を選んでしまった。
電車の中で、思い出の写真と連絡先を泣く泣く削除。
私が一緒じゃなくても、彼には彼の幸せを掴んで欲しいと思った。
けれど、それは後悔として私の心をいつまでも蝕むことになる。
別れてから三年、今ならまだ間に合うかもしれない。
彼はまだ、あの頃の私への気持ちを持ってくれているかもしれない。
私がそうであるように…。
降り立った駅のホームから見る景色はあの時とほとんど変わらなかった。
たった三年だもんね。
私は実家よりも先に、彼の元に走った。
連絡もなしで、びっくりするだろうな。どんな顔するかな…。
まず謝らなきゃ、あんなに応援してくれていたのに、夢を諦めちゃったこと。
謝らなきゃ、あの日あなたを選ばなかったこと。
そして伝えるんだ、ずっと好きだったって…!
(赤ん坊の声)
え
三年という年月を、私は甘く見ていた。
私があの頃想像していたシーンに、私はいない。あなたの隣にいたのは私じゃない人。
あぁ…私はもう、あなたの中にいないのね。
電車の中でデータを消去した時に、あなたの記憶の中の私も消去されたのかもしれない。
(電車の音)
私はそのまま、再び電車に乗った。
(着信)
お母さん…。
夢を選んだ事を、母はずっと反対していた。喧嘩別れ同然に私は実家を出たのだ。
ずっと連絡出来なかった。
声を聞くのが怖くて、怖くて仕方なかった。
出来ない自分を肯定されたくなかったから。
でも今私は…母の言った通りになっている。
胸の中で、真っ黒な穴が大きく拡がっていくのを感じた。
その中には何も無い。
夢も、希望も…全部失って…。
全部、自分のせいだ。
私は穴を埋めるように、手当り次第に求愛した。優しくしてくれるなら、誰でもよかった。
愛して、愛して、愛して…
埋めて、この穴を埋めて…!
真っ黒な穴は真っ黒な何かで満たされていく。
当時の私は路地裏で朝を迎える事が当たり前になっていた。
そんな時だ。私は一人の男に拾われた。
行く所がないなら、と家に置いてくれて…いつの間にかそういう関係になった。
なんとか人並みの生活が出来るようになった頃、私は母に会いに行く決心をした。
しかし、新型ウイルス感染症による脅威がそれを妨げる。
緊急事態宣言が発令され、都会から地方へ移動する事が制限された。
田舎社会だ。私が帰れば家族も偏見の目に晒され、迷惑をかける事になる。
(電話)
もしもし…わたし、だけど…え、お父さん?
うん、ごめん。久しぶり。あの…お母さんは?
え
母が癌を患ったらしい。
父が電話の向こうで何故連絡一つよこさなかったのだと、嗚咽交じりに言う。
母は私に自分の病状を絶対に知らせるなと家族に言ったそうだ。
夢を追う私の、邪魔になるわけにはいかないと。
最後に言葉を交わしてから五年経っていた。
遺品の中にあった母の携帯を手に取った。
電源を入れると待ち受けにはまだ夢を追いかけていた頃の私の写真。
謝っても、謝っても…もう届かない…。
私のお腹に宿ったこの子を、抱いてもらうこともできない。
産まれたのは女の子。菜月と名付けた。
初めての出産、育児。相談出来る人も、頼れる人もいなかった。
父親であるはずの彼は、出産間近からほとんど家に帰ってこなくなった。母を思い出し泣き暮らす私にきっとうんざりしたんだろう。
私は菜月と2人、置いて行かれたアパートでぼんやりと日々を過ごしていた。
菜月は度々泣き出す私を慰めるように、よく笑った。
その笑顔は天使のようで、愛しくて、愛しくて。
何があってもこの子だけは守ろうと誓った。
私にはもうこの子しかいなかったのだから。
菜月を保育園に預け、また働き出した頃だった。
はい…え、なんですか?
ここにはずっと帰ってきてなくて。
はい、私ですけど…え
いつの間にか借金五百万円の連帯保証人になっていた。
連絡を取ろうとするも繋がらない。
アルバイトを転々としていた私に返せる額ではない。
出来ることはもう、限られていた。
紹介された仕事は、私に合っていたように思う。
いっときでも、誰かに愛してもらえるのだから。
心の穴が黒いもので満たされては溢れていく。
溢れて溢れて…
夫が見つかったと知らせが入ったが、私の元へ帰ってくることはなかった。
借金を返す必要はなくなった。
夫が自らの身体をお金に替えたからだ。
菜月と二人、生きていこう。
この子を幸せにする為だけに、生きよう。
大丈夫、私がしっかりさえすれば…。
大丈夫。
しかし過去への後悔は重い足枷となって私にまとわりつき、前進することを許さなかった。
歩けない、立てない、動けない…
そんな日々が続き、仕事に就いたとしても続かない。
役所の職員が何度もインターホンを鳴らした。
それを受け入れたら、私は本当にダメになってしまう気がした。
何より、菜月と離れ離れになったらきっと、きっとまた後悔することに…。
いやちがう、今だからまだいいのだ。
今ならまだ間に合う。
菜月は三歳になっていた。
言葉も覚え、お喋りも、歌も上手になった。この笑顔はきっと誰からも愛される。
この年齢の時期の思い出が鮮明に記憶に残ることはほとんどないと聞いた。
今なら私を、忘れてくれるだろう。
菜月にはこのまま私といるよりも、幸せになれる道があるのだ。
娘を、よろしくお願いします。
もう、選択を間違えることはしたくない。
人生にリセットボタンはないのだから。
❂❂❂おわり❂❂❂